2009年01月27日
岡久 氏の毎日の憂さ晴らしの日記ケーニヒスベルクとしての歴史
ケーニヒスベルクとしての歴史について考えました。
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現在カリーニングラードと呼ばれているケーニヒスベルクは、1255年にドイツ騎士団によって建設され、ハンザ同盟に所属するバルト海の貿易都市となった。街はポーランドとリトアニアを流れるプレーゲル川(現・プレゴリャ川)の河口部に位置し、中州であるクナイプホーフを中心に広がり、プレーゲル川流域の諸国の物産を集めてバルト海沿岸の諸都市と交易し繁栄した。のちに一時ポーランド王国が奪取するが、1525年にドイツ騎士団の総長だったホーエンツォレルン家のアルブレヒトが修道会国家を世俗化させて東プロイセンに成立させたプロイセン公国の首都となり、公国の血が絶えると同族であるブランデンブルク選帝侯のホーエンツォレルン家が飛び地となる公国を同時に治めることになった。1701年、ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世は神聖ローマ帝国の外にあたるケーニヒスベルクで王に即位、フリードリヒ1世となりプロイセン王国がこの街で誕生した。またケーニヒスベルク大学などを擁する教育と研究の中心地でもあり、イマヌエル・カントら多くの学者を輩出した。19世紀にプロイセン王国を中心にドイツ帝国が形成されると、その一部となった。
第一次世界大戦後、旧ドイツ帝国の東部領土が割譲され、ドイツやオーストリアによって分割されていたポーランドが独立を果たした。その際、ポーランド北部のバルト海に面した地域にあたる旧プロイセン公国の領域のうち、自由都市として残されたダンツィヒ(グダンスク)を除いた「西プロイセン」は、ポーランドの海への出口(ポーランド回廊)としてポーランドに割譲された。そのため、ドイツ領に残され、ケーニヒスベルクを中心とする「東プロイセン」は、ドイツ本国との陸上路が閉ざされ、孤立した飛び地となった。
のちにドイツで政権を握ったナチス党のアドルフ・ヒトラーは、ポーランド侵攻直前に飛び地解消を名目にポーランド回廊の領土返還を要求したが、権威主義的なピウスツキ政権下のポーランド側はミュンヘン会談の取り決め(ドイツは英・仏・伊に対しチェコスロバキアから併合したズデーテン地方以外に領土要求はしないと約束した)を盾にドイツの領土要求を拒否したため、ドイツ軍がポーランドに侵攻し、これにより第二次世界大戦が始まるが、東プロイセンは再びドイツ本土と陸路で結ばれることとなった。
引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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